筑豊興業鉄道の発展と香月線敷設
明治24(1891)年、紆余曲折ありながら、若松から直方間の筑豊興業鉄道会社は開業しました。当初は停車場(駅)の運炭設備も整わず、筑豊の炭坑主たちもなかなか水運による石炭輸送から抜け出せない状況でした。しかし、運賃の引き下げや輸送力の増強などにより、徐々に鉄道による運炭が増え始め、明治26(1893)年には嘉麻郡、田川郡まで路線を延伸し、ほぼ筑豊を縦貫するまでになりました。
そして、明治29(1896)年には、若松港への着炭量が水運83万トン、陸運124万トンと陸運が優位になり、以降急速に水運は衰退していきます。
また、鉄道による石炭輸送力の増強や若松港の繁栄などは、その後、官営製鐵所を八幡へ誘致することに成功した遠因ともなりました。
この頃、遠賀郡香月(かつき)村、長津(ながつ)村には貝島(かいじま)太助(たすけ)が経営する大辻(おおつじ)炭鉱と城之前炭鉱、杉守炭鉱など中小炭坑があり、黒川による水運で芦屋や若松に運炭していました。
これら香月周辺の運炭を鉄道にしようと、九州鉄道(明治30年に筑豊興業鉄道と九州鉄道が合併、明治40年に国有化)は中間(なかま)から香月間の鉄道敷設を計画、出願し、明治40(1907)年2月16日に鉄道敷設本免許状が下付されました。
明治41(1908)年7月1日に香月線は開通し、これにより香月周辺の運炭の利便性は大幅に上がり、木屋瀬(こやのせ)、野面(のぶ)方面の石炭も次第に香月駅に集中するようになりました。開通して3年後には、香月線で旅客輸送が始まりました。