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明治日本の産業革命遺産

明治日本の産業革命遺産 JAPANS MEIJI INDUSTRIAL REVOLUTION

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「なつかしの香月線」展

  • CHAPTER0 ごあいさつ
  • CHAPTER1 鉄道の歴史
  • CHAPTER2 香月線とは
  • CHAPTER3 中間駅
  • CHAPTER4 新手駅
  • CHAPTER5 岩崎駅
  • CHAPTER6 香月駅 
大勢の人が集まる香月駅(さよなら香月線イベント)の画像

香月駅(さよなら香月線イベント)

香月駅駅舎の正面出入り口を撮影した画像

香月駅駅舎

大勢の人が集まる香月駅(さよなら香月線イベント)の画像
香月駅駅舎の正面出入り口を撮影した画像

終着駅香月駅の設置と香月線の終焉

 香月周辺には、筑豊の有力炭坑主、貝島太助が大辻(おおつじ)炭坑を経営していました。貝島は長津・香月村に多数の炭坑を所有し、これを大辻炭坑と称し、香月村を本拠に明治42(1909)年12月、貝島鉱業株式会社を設立しました。
 香月線はこの貝島と、深坂(ふかさか)周辺の炭坑を持つ岩崎炭坑の炭坑主、岩崎久米(くめ)吉(きち)の強い要望で敷設されました。
香月駅は香月線の終着駅で、中間駅から約3.5km、所要時間約9分の場所、大辻炭坑のすぐそばに設置されました。
 香月駅は明治44(1911)年に一般貨物と旅客の取扱いを始めますが、香月・楠橋地区の貴重な交通手段であり、通勤・通学に頻繁に利用されたことから、昭和35年度の乗客数は一日平均1,077人で、貨物輸送は236,805トンでした。当時の炭坑の盛況ぶりが伺えます。しかしながら、昭和40年代になると筑豊の炭坑が次々と姿を消し、それに伴い、香月線の貨物と人の輸送も激減します。
 昭和55(1980)年に成立した「国鉄再建法」によって赤字路線の廃止が加速、翌年に赤字ローカル線第一次廃止計画(対象区40線)が承認されました。香月線は昭和46年度の経常収支で、収入約800万円に対し支出が約7,800万円という大幅な赤字路線だったことから、この第一次廃止計画の対象区になってしまいました。
 香月駅は廃線まで無人駅にはなりませんでしたが、昭和60年3月31日に最後のさようなら列車が香月線を走行し、開業77年の歴史に幕を閉じました。

終着駅香月駅の設置と香月線の終焉

 香月周辺には、筑豊の有力炭坑主、貝島太助が大辻(おおつじ)炭坑を経営していました。貝島は長津・香月村に多数の炭坑を所有し、これを大辻炭坑と称し、香月村を本拠に明治42(1909)年12月、貝島鉱業株式会社を設立しました。
 香月線はこの貝島と、深坂(ふかさか)周辺の炭坑を持つ岩崎炭坑の炭坑主、岩崎久米(くめ)吉(きち)の強い要望で敷設されました。
香月駅は香月線の終着駅で、中間駅から約3.5km、所要時間約9分の場所、大辻炭坑のすぐそばに設置されました。
 香月駅は明治44(1911)年に一般貨物と旅客の取扱いを始めますが、香月・楠橋地区の貴重な交通手段であり、通勤・通学に頻繁に利用されたことから、昭和35年度の乗客数は一日平均1,077人で、貨物輸送は236,805トンでした。当時の炭坑の盛況ぶりが伺えます。しかしながら、昭和40年代になると筑豊の炭坑が次々と姿を消し、それに伴い、香月線の貨物と人の輸送も激減します。
 昭和55(1980)年に成立した「国鉄再建法」によって赤字路線の廃止が加速、翌年に赤字ローカル線第一次廃止計画(対象区40線)が承認されました。香月線は昭和46年度の経常収支で、収入約800万円に対し支出が約7,800万円という大幅な赤字路線だったことから、この第一次廃止計画の対象区になってしまいました。
 香月駅は廃線まで無人駅にはなりませんでしたが、昭和60年3月31日に最後のさようなら列車が香月線を走行し、開業77年の歴史に幕を閉じました。

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