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明治日本の産業革命遺産

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「なつかしの香月線」展

  • CHAPTER0 ごあいさつ
  • CHAPTER1 鉄道の歴史
  • CHAPTER2 香月線とは
  • CHAPTER3 中間駅
  • CHAPTER4 新手駅
  • CHAPTER5 岩崎駅
  • CHAPTER6 香月駅 

新手炭坑と新手駅

 中間市の新手(あらて)付近にあった炭坑は、市内の炭坑の中でも歴史が古く、明治16(1883)年に伊藤綯索により三尺層炭坑が経営されました。その後、昭和12(1937)年に九州採炭株式会社が設立され、昭和39(1964)年の閉山まで同社が新手炭坑の経営を行います。
新手駅はこれら新手周辺の炭坑からの石炭運送のため、香月線開業の翌年、明治45(1912)年1月7日に貨物停車場として設置されました。中間駅から南へ約1.3km、所要時間約3分、新手炭坑の選炭場に直結する位置に停車場が置かれました。
新手駅は開業当初から貨物専用の駅として運用されていましたが、昭和6(1931)年6月に中間町商工会長の要請を受け、中間町長が鉄道大臣に旅客乗降の陳情書を提出しました。しかし、旅客に対応するための改修費4,200円を全額地元が負担する条件が出されたため、新手駅での旅客乗降計画は頓挫します。その後も交渉が続けられ、昭和12(1937)年7月20日にようやく新手駅での旅客乗降が開始されました。
 新手駅の乗降者数は炭坑の活況と同時に伸び、 昭和37年度は1日平均の乗客数が471.8人となりましたが、炭坑閉山などにより次第に乗客が減っていきます。そして、昭和53年度の1日平均の乗客数は196.2人となり、最盛期の半分以下まで落ち込みます。
このような状況から、新手駅の運営は昭和41(1966)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
 

新手炭坑と新手駅

 中間市の新手(あらて)付近にあった炭坑は、市内の炭坑の中でも歴史が古く、明治16(1883)年に伊藤綯索により三尺層炭坑が経営されました。その後、昭和12(1937)年に九州採炭株式会社が設立され、昭和39(1964)年の閉山まで同社が新手炭坑の経営を行います。
新手駅はこれら新手周辺の炭坑からの石炭運送のため、香月線開業の翌年、明治45(1912)年1月7日に貨物停車場として設置されました。中間駅から南へ約1.3km、所要時間約3分、新手炭坑の選炭場に直結する位置に停車場が置かれました。
新手駅は開業当初から貨物専用の駅として運用されていましたが、昭和6(1931)年6月に中間町商工会長の要請を受け、中間町長が鉄道大臣に旅客乗降の陳情書を提出しました。しかし、旅客に対応するための改修費4,200円を全額地元が負担する条件が出されたため、新手駅での旅客乗降計画は頓挫します。その後も交渉が続けられ、昭和12(1937)年7月20日にようやく新手駅での旅客乗降が開始されました。
 新手駅の乗降者数は炭坑の活況と同時に伸び、 昭和37年度は1日平均の乗客数が471.8人となりましたが、炭坑閉山などにより次第に乗客が減っていきます。そして、昭和53年度の1日平均の乗客数は196.2人となり、最盛期の半分以下まで落ち込みます。
このような状況から、新手駅の運営は昭和41(1966)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
 

新手炭坑と新手駅

 中間市の新手(あらて)付近にあった炭坑は、市内の炭坑の中でも歴史が古く、明治16(1883)年に伊藤綯索により三尺層炭坑が経営されました。その後、昭和12(1937)年に九州採炭株式会社が設立され、昭和39(1964)年の閉山まで同社が新手炭坑の経営を行います。
新手駅はこれら新手周辺の炭坑からの石炭運送のため、香月線開業の翌年、明治45(1912)年1月7日に貨物停車場として設置されました。中間駅から南へ約1.3km、所要時間約3分、新手炭坑の選炭場に直結する位置に停車場が置かれました。
新手駅は開業当初から貨物専用の駅として運用されていましたが、昭和6(1931)年6月に中間町商工会長の要請を受け、中間町長が鉄道大臣に旅客乗降の陳情書を提出しました。しかし、旅客に対応するための改修費4,200円を全額地元が負担する条件が出されたため、新手駅での旅客乗降計画は頓挫します。その後も交渉が続けられ、昭和12(1937)年7月20日にようやく新手駅での旅客乗降が開始されました。
 新手駅の乗降者数は炭坑の活況と同時に伸び、 昭和37年度は1日平均の乗客数が471.8人となりましたが、炭坑閉山などにより次第に乗客が減っていきます。そして、昭和53年度の1日平均の乗客数は196.2人となり、最盛期の半分以下まで落ち込みます。
このような状況から、新手駅の運営は昭和41(1966)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
 

新手炭坑と新手駅

 中間市の新手(あらて)付近にあった炭坑は、市内の炭坑の中でも歴史が古く、明治16(1883)年に伊藤綯索により三尺層炭坑が経営されました。その後、昭和12(1937)年に九州採炭株式会社が設立され、昭和39(1964)年の閉山まで同社が新手炭坑の経営を行います。
新手駅はこれら新手周辺の炭坑からの石炭運送のため、香月線開業の翌年、明治45(1912)年1月7日に貨物停車場として設置されました。中間駅から南へ約1.3km、所要時間約3分、新手炭坑の選炭場に直結する位置に停車場が置かれました。
新手駅は開業当初から貨物専用の駅として運用されていましたが、昭和6(1931)年6月に中間町商工会長の要請を受け、中間町長が鉄道大臣に旅客乗降の陳情書を提出しました。しかし、旅客に対応するための改修費4,200円を全額地元が負担する条件が出されたため、新手駅での旅客乗降計画は頓挫します。その後も交渉が続けられ、昭和12(1937)年7月20日にようやく新手駅での旅客乗降が開始されました。
 新手駅の乗降者数は炭坑の活況と同時に伸び、 昭和37年度は1日平均の乗客数が471.8人となりましたが、炭坑閉山などにより次第に乗客が減っていきます。そして、昭和53年度の1日平均の乗客数は196.2人となり、最盛期の半分以下まで落ち込みます。
このような状況から、新手駅の運営は昭和41(1966)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
 

新手炭坑と新手駅

 中間市の新手(あらて)付近にあった炭坑は、市内の炭坑の中でも歴史が古く、明治16(1883)年に伊藤綯索により三尺層炭坑が経営されました。その後、昭和12(1937)年に九州採炭株式会社が設立され、昭和39(1964)年の閉山まで同社が新手炭坑の経営を行います。
新手駅はこれら新手周辺の炭坑からの石炭運送のため、香月線開業の翌年、明治45(1912)年1月7日に貨物停車場として設置されました。中間駅から南へ約1.3km、所要時間約3分、新手炭坑の選炭場に直結する位置に停車場が置かれました。
新手駅は開業当初から貨物専用の駅として運用されていましたが、昭和6(1931)年6月に中間町商工会長の要請を受け、中間町長が鉄道大臣に旅客乗降の陳情書を提出しました。しかし、旅客に対応するための改修費4,200円を全額地元が負担する条件が出されたため、新手駅での旅客乗降計画は頓挫します。その後も交渉が続けられ、昭和12(1937)年7月20日にようやく新手駅での旅客乗降が開始されました。
 新手駅の乗降者数は炭坑の活況と同時に伸び、 昭和37年度は1日平均の乗客数が471.8人となりましたが、炭坑閉山などにより次第に乗客が減っていきます。そして、昭和53年度の1日平均の乗客数は196.2人となり、最盛期の半分以下まで落ち込みます。
このような状況から、新手駅の運営は昭和41(1966)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
 

新手炭坑と新手駅

 中間市の新手(あらて)付近にあった炭坑は、市内の炭坑の中でも歴史が古く、明治16(1883)年に伊藤綯索により三尺層炭坑が経営されました。その後、昭和12(1937)年に九州採炭株式会社が設立され、昭和39(1964)年の閉山まで同社が新手炭坑の経営を行います。
新手駅はこれら新手周辺の炭坑からの石炭運送のため、香月線開業の翌年、明治45(1912)年1月7日に貨物停車場として設置されました。中間駅から南へ約1.3km、所要時間約3分、新手炭坑の選炭場に直結する位置に停車場が置かれました。
新手駅は開業当初から貨物専用の駅として運用されていましたが、昭和6(1931)年6月に中間町商工会長の要請を受け、中間町長が鉄道大臣に旅客乗降の陳情書を提出しました。しかし、旅客に対応するための改修費4,200円を全額地元が負担する条件が出されたため、新手駅での旅客乗降計画は頓挫します。その後も交渉が続けられ、昭和12(1937)年7月20日にようやく新手駅での旅客乗降が開始されました。
 新手駅の乗降者数は炭坑の活況と同時に伸び、 昭和37年度は1日平均の乗客数が471.8人となりましたが、炭坑閉山などにより次第に乗客が減っていきます。そして、昭和53年度の1日平均の乗客数は196.2人となり、最盛期の半分以下まで落ち込みます。
このような状況から、新手駅の運営は昭和41(1966)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
 

新手炭坑と新手駅

 中間市の新手(あらて)付近にあった炭坑は、市内の炭坑の中でも歴史が古く、明治16(1883)年に伊藤綯索により三尺層炭坑が経営されました。その後、昭和12(1937)年に九州採炭株式会社が設立され、昭和39(1964)年の閉山まで同社が新手炭坑の経営を行います。
新手駅はこれら新手周辺の炭坑からの石炭運送のため、香月線開業の翌年、明治45(1912)年1月7日に貨物停車場として設置されました。中間駅から南へ約1.3km、所要時間約3分、新手炭坑の選炭場に直結する位置に停車場が置かれました。
新手駅は開業当初から貨物専用の駅として運用されていましたが、昭和6(1931)年6月に中間町商工会長の要請を受け、中間町長が鉄道大臣に旅客乗降の陳情書を提出しました。しかし、旅客に対応するための改修費4,200円を全額地元が負担する条件が出されたため、新手駅での旅客乗降計画は頓挫します。その後も交渉が続けられ、昭和12(1937)年7月20日にようやく新手駅での旅客乗降が開始されました。
 新手駅の乗降者数は炭坑の活況と同時に伸び、 昭和37年度は1日平均の乗客数が471.8人となりましたが、炭坑閉山などにより次第に乗客が減っていきます。そして、昭和53年度の1日平均の乗客数は196.2人となり、最盛期の半分以下まで落ち込みます。
このような状況から、新手駅の運営は昭和41(1966)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
 

新手炭坑と新手駅

 中間市の新手(あらて)付近にあった炭坑は、市内の炭坑の中でも歴史が古く、明治16(1883)年に伊藤綯索により三尺層炭坑が経営されました。その後、昭和12(1937)年に九州採炭株式会社が設立され、昭和39(1964)年の閉山まで同社が新手炭坑の経営を行います。
新手駅はこれら新手周辺の炭坑からの石炭運送のため、香月線開業の翌年、明治45(1912)年1月7日に貨物停車場として設置されました。中間駅から南へ約1.3km、所要時間約3分、新手炭坑の選炭場に直結する位置に停車場が置かれました。
新手駅は開業当初から貨物専用の駅として運用されていましたが、昭和6(1931)年6月に中間町商工会長の要請を受け、中間町長が鉄道大臣に旅客乗降の陳情書を提出しました。しかし、旅客に対応するための改修費4,200円を全額地元が負担する条件が出されたため、新手駅での旅客乗降計画は頓挫します。その後も交渉が続けられ、昭和12(1937)年7月20日にようやく新手駅での旅客乗降が開始されました。
 新手駅の乗降者数は炭坑の活況と同時に伸び、 昭和37年度は1日平均の乗客数が471.8人となりましたが、炭坑閉山などにより次第に乗客が減っていきます。そして、昭和53年度の1日平均の乗客数は196.2人となり、最盛期の半分以下まで落ち込みます。
このような状況から、新手駅の運営は昭和41(1966)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
 

新手炭坑と新手駅

 中間市の新手(あらて)付近にあった炭坑は、市内の炭坑の中でも歴史が古く、明治16(1883)年に伊藤綯索により三尺層炭坑が経営されました。その後、昭和12(1937)年に九州採炭株式会社が設立され、昭和39(1964)年の閉山まで同社が新手炭坑の経営を行います。
新手駅はこれら新手周辺の炭坑からの石炭運送のため、香月線開業の翌年、明治45(1912)年1月7日に貨物停車場として設置されました。中間駅から南へ約1.3km、所要時間約3分、新手炭坑の選炭場に直結する位置に停車場が置かれました。
新手駅は開業当初から貨物専用の駅として運用されていましたが、昭和6(1931)年6月に中間町商工会長の要請を受け、中間町長が鉄道大臣に旅客乗降の陳情書を提出しました。しかし、旅客に対応するための改修費4,200円を全額地元が負担する条件が出されたため、新手駅での旅客乗降計画は頓挫します。その後も交渉が続けられ、昭和12(1937)年7月20日にようやく新手駅での旅客乗降が開始されました。
 新手駅の乗降者数は炭坑の活況と同時に伸び、 昭和37年度は1日平均の乗客数が471.8人となりましたが、炭坑閉山などにより次第に乗客が減っていきます。そして、昭和53年度の1日平均の乗客数は196.2人となり、最盛期の半分以下まで落ち込みます。
このような状況から、新手駅の運営は昭和41(1966)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
 

中間駅から新手駅までの香月線沿線の街の様子を表した周辺地図の写真

新手駅周辺地図(1952年) 中間駅から新手駅までの香月線沿線の街の様子がよくわかる資料。

琺瑯で作られた駅名板「あらて」の写真

駅名板「あらて」(琺瑯製)

鉄製の駅標「新手駅」の写真

駅標「新手駅」(鉄製)

新手駅の運賃表および発車時刻が記載されている表の写真

運賃表および発車時刻表「新手駅」

線路沿いから見える新手駅のホームの画像

新手駅ホーム

新手駅に設置されている看板の白黒画像

新手駅看板

列車が新手駅のホームに入線する様子を撮影した白黒画像

新手駅ホームに入線する列車

新手駅ホームで列車から乗降する人たちの様子

新手駅ホームでの乗降

新手駅周辺を走行している列車の写真

新手駅周辺を走る列車

中間駅から新手駅までの香月線沿線の街の様子を表した周辺地図の写真
琺瑯で作られた駅名板「あらて」の写真
鉄製の駅標「新手駅」の写真
新手駅の運賃表および発車時刻が記載されている表の写真
線路沿いから見える新手駅のホームの画像
新手駅に設置されている看板の白黒画像
列車が新手駅のホームに入線する様子を撮影した白黒画像
新手駅ホームで列車から乗降する人たちの様子
新手駅周辺を走行している列車の写真

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  • 「明治日本の産業革命遺産」企画展 福岡県の黒ダイヤ-中間市歴史民俗資料館コレクション-

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