貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。
貨物専用の岩崎駅と旅客専用の楠橋駅の合併
明治41(1908)年7月に香月線が開通すると同時に、岩崎炭坑のすぐそばにも停車場が置かれました。中間駅から黒川の鉄橋を渡るとすぐに分岐があり、左に行くと香月駅、右に行くと岩崎炭坑停車場でした。
この停車場は明治44(1911)年1月には一般貨物の取扱いも開始し、貨物専用の駅として利用されました。
明治44(1911)年10月、香月駅で旅客の取扱いが開始されますが、近隣住民の強い要望により、大正元(1912)年11月に旅客専用の楠橋(くすばし)駅が新設されます。(※楠橋村と長津村の境界地点だったため楠橋駅の名称が採用)
新設された楠橋駅は中間駅から2.7km、所要時間約6分の黒川沿いの場所に設置されました。
大正8(1919)年になると香月線の営業方針が変更され、旅客専用の楠橋駅と貨物専用の岩崎駅が合併し、楠橋駅が岩崎駅に名称変更されました。これに伴い、岩崎炭坑専用の岩崎駅は駅名がなくなり、単なる炭坑引込線となりました。
新しい岩崎駅の乗降客数は、ピーク時の昭和30年度で1日平均431人でしたが、炭坑が閉山されると次第に減少し、昭和53年度は159.7人にまで落ち込みます。
このような状況から、岩崎駅の運営は昭和40(1965)年4月から民間委託となり、昭和49(1974)年3月からは無人駅となりました。